《ユリシーズ》ワークショップ参加

会場で購入した活動記録ブックレットの表紙。静かな、そして言葉以前の何かを深々と内包した海。

行ってきたのは6月末。《十年》に向けて、身体を立て直すための強化月間そのいち、的な。

Twitterで流れてくる言葉、モノの見方、身体の捉え方…に以前から惹かれていた最上和子さん—ご自身の踊りを《原初舞踏》として活動していらっしゃる舞踏家の方—が、舞台と映像の企画“ユリシーズ”の一環としてWSを開催するというので申し込み、運良くご縁が繋がって受講参加が叶った。もっと早く記録を書ければよかったのだけれど…なんとか1ヶ月経つ前に、感じたことを文字に落とし込めてきたという状態。

会場はOFFの日の劇場の舞台上。受講参加者の他に、20名弱の見学参加者が舞台上の上手下手に並べられた箱馬に座り、カメラが入り、つまり、受講参加者は、劇場の舞台という場で、視線に晒されて、身体に向かいあう。

だからといって、いわゆる本番前の通し稽古でもない。

休みの日の劇場、というOFFの(あるいはマトリックスとしての)世界に、“視線”というONのセッティングが持ち込まれた中で、稽古する者の意識や身体はどう変容するのか、といった実験でもあるらしい(これについては、カメラに捕らえられた受講参加者の様子を第三者として見てみないと、私自身が変化していたかはなんとも言えない感じで、というか普段からマボロシの視線をイメージして稽古している部分もあるからなぁ…)。

一方で、WSそのもの、あと、劇場という物理的な構造体(天井が高いとか、高い舞台の直下からずっと“無人の客席”という“空洞”が広がっているとか)から受けた影響が大きい。未だに行きつけない道の途中、ちょうど冒頭の写真のようなイメージの中に踏み込んで彷徨っている感じが抜けない。稽古を続けていくしかないんだろうなぁ。

【オーム斉唱】

見学参加者を含め、二重三重の円陣で座り、10分間、だったろうか、各々オームを唱える。最後の対話の時間に、“声が押し寄せてくるようで怖かった”という発言があり、“海鳴りのように聞こえることがある”と最上さんが答えていた。が、私はというと、声を出していくことで少しずつ身体の中が通り、詰まりが抜け、よく響く管になっていくのを感じながら、はるか天井からきれいなソプラノでオームを唱える声が落ちてくるのを聞いていた。そして、見学者やスタッフも含め50人もいれば鈴を振るような声でオームを唱える人もいるんだなぁ、などと呑気なことを考えていた。聴きながら声を出しているうちに、あちこちの声の高さ、息継ぎのタイミングのとりどり、ちょうどオーケストラのチューニングがある瞬間にとんでもなく複雑な重層構造になっているのが聞き取れて反射的に泣けるみたいな、あんな感じ。

【さわる と ふれる】

漢字で書いちゃうとどっちも“触”で、送り仮名があるかないかの違いくらいなのに、言葉が感覚に呼び起こしている反応がぜんぜん違う、ということ。舞台のツラに立ち、周囲…つまり劇場の壁や天井や周囲の人に対して、“目でさわって”いき、次いで“目でふれて”いく。感覚がどう違ってくるか。“さわる”とき、感覚の中に呼び起こされる、硬さ、冷たさ、布張りに見える壁の弾力、視線の先にいる人の生身のやわらかさ…モノ、としての情報量の多さ。“ふれる”と思ったら、自分の視線の圧力が急に限りなくゼロになり、かわりに“そこに何かがある”という微かな気配、そして木の匂いや埃っぽい空気の匂いなど、視覚とそれが投影された触覚以外の感覚が急に立ち上がってきたりする。舞台のツラに立つ足の感覚もほどけてくる(ふらつく人がでることがあるから、キワから1mくらいは内側に立って、とは言われていた)。これを、受講参加者20名が半々に別れて、互いの見取り稽古もする。目が鍛えられていれば、言葉が変わった時に人の身体がどう変わるかも見えたはず…

【床稽古】

10分かけて静かに脱力して床の上に横たわっていく。さらに10分間、床の上で脱力し続ける。それから10分かけて、動きを途切らせず力を使わず、どこかを支えにしたり反動を使ったり…の、立ち上がる経路のショートカットを入れずに立ち上がり、それからしばらく、身体の衝動をさぐりながら動いていく…というのが課題。手本を見せてくださった最上さんの床へ向かう脱力があまりに嘘のない、密やかで息継ぎも巻き戻しもない脱力で息を飲む。筋力やバランスで下への動きをコントロールするのではなく、静かに静かに身体から砂がこぼれるように力が抜けていくのが本当に美しくて。

いざ、やってみると、力を抜くための身体の解像度があまりに低いのを突き付けられる羽目になった。具体的には10分を知らせる鈴までかなり間を残して、床によこたわってしまった。そこから、身体中の力を探しては抜いていく。抜きすぎて意識まで半睡の状態に抜けてしまう。横たわっている間に夢まで見た。立ち上がりに入る合図の鈴はちゃんと聞いていたので、一部だけ残して深く眠ってしまったのだろう。

そこから立ちあがろうとするが、上へ向かう動きの芽がみつからない。どうにか探り当てた気がしても伸ばし方がわからない。ジタバタしながら、そういえば、と、“床に触れられている”というイメージを持ってみる。すると、不思議に床の硬さ、揺るぎなさが自分との接触面に付与されたかのように、押し上げられるようにして、身体が起き上がり始めた。イメージに愚直にあることで骨や腱や筋肉の動きも変わるのだなぁ、と、驚く。

最初でジタバタしまくったので、10分使っても立ちきれなかったのだが、フリームーブの時間の途中から音楽がかかると、音楽に感情が作り出され、感情が動きを支えて、何故か動けてしまった。感情が動いて、身体が引っ張られる。なんだかぼろぼろ泣ける。泣きながら、なんだか音楽があるってちょっと反則なんじゃないか、と突然思ってしまった。少しだけ、身体の衝動を探る作業に嘘が入った気もして。

このパートは、自分については“まだまだ修行が足りない”しかないのだけど、見取り稽古が圧巻だった。脱力して床に横たわる姿が圧倒的に美しい人、静かに解けるように脱力し、それが巻き戻るように立ち上がっていく人…。床に降りるのはバランスや筋力ではなく、本当に身体を支える力が分解していくのだということ。

【垂直の歩行】

客席、というからっぽの空間を背に、吸気とともに重力から軽く軽く浮いて浮遊状態から一歩を踏み出し、その一歩を地中深く埋めながら息を吐き、それと同時に“我はここにあり”と宣言する。そのようにして歩を進めてゆく、という課題。

ここでも実は、きちんと息が吸えない、吸ったら肩が緊張して浮き上がり広がるどころではない、降ろした足がふらつき大地に落ちていく途中で倒れそうになる…と散々で、“在るための我を確かなものにせねば”というのが自分の状態。さらに、背後に背負った“空っぽの客席”を“原初の海”として感じながら、一歩ごとに存立宣言をしながら歩いてゆく(ちょうどブックレットの表紙のような海から上陸してゆくイメージ?)、という課題に至っては、イメージが上滑りするばかりでどうしても“海を背にした身体”にならない。

しかし、見取り稽古させていただいて…こちらが凄かった。足取りの覚束なさとは裏腹に、何というか銃弾の雨の中を命懸けで真っ直ぐに進んでいくような、そんな姿で歩いてくる人たちを何人も見た。命がけで突っ立った死体、というのはあれか、とも思った。舞踏を学び始めた時にいわれた、死地にある身体、という言葉も思い出した。技術ではなく在り方が輝く、そういうものがあるのだな、と思いながらやたら泣けた。あんなふうになりたい。

そんなこんなで、5時間のWSは、未だに私の中で消化しきれていない。しかし課題をたくさんたくさん見出せた。クラスに参加するというのは自主稽古の課題と稽古方法を提示してもらうことだと思っているので、あの日、私は本当に得難い機会を得たのだ。

で、ひとまず毎日床稽古はしている。

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