無垢舞踏劇場『緩行中的漫舞』-Poetry in Motion-

8月最初の日曜日、11時に家を出て迷いまくりながらなんとかバスを乗り換え、それでも開演の1時間前に台中市立屯区芸文中心実験劇場のドア前に。

本当に“ようやくここまで来た”感半端ない。素敵だなぁと憧れていた舞踊団の人と何故かお話する機会ができて、8月に来台するならちょうどそのころ舞台あるよって言われて、怪しい中国語能力でその公演が台中で行なわれることや公演だけじゃなくWS付きであることを認識し、とりあえずチケットをネット購入する。WSつきにしてはなんだか信じられないくらいチケット値段が安いので、本当にWS受けられるんだろうか、私の読み違いじゃないかとかそういうところまで実はドキドキしてた。確認メールが来て、国家歌劇院のチケットオフィスでチケットの現物が受け取れて、ちゃんと私の解釈通りに物事が展開していくのがほんとにうれしかったとかなんとか。それでとにかくここまで来た。ちゃんと、今日ここで公演があることも確認してほっとした。しかしまあ、あるものはずっとそこにあるのに、言葉があやふやなだけでずいぶん勝手に不安になれるものだ^^;;;

でもまあ、ここにこうやってポスターも出ているから、もう間違いない。あとは中国語ろくにわからないのにWSちゃんとついていけるかとかそういう問題があるのだけど…

で、ドア前1番に並んでいると、ついに開場。

観客の額にももれなく赤い印。あ、あのメイキング動画で映ってた化粧用のお皿や筆と赤い染料だ、と、なんだかえらく嬉しくなる。儀式から起こした演目が多いから、観客も劇場に入る前に“聖別”するということなのかな、ともちょっと思うがミーハー心のほうが100倍くらい大きい。

舞台は――素晴らしいというより凄まじかった。ホール入り口で「無言でお願いしますね」と言われて入ったら、舞台中央に座して微動だにしない仏像のようなダンサーが一人。最前列センターに席を占めたので、開演までの15分、ずっとこのダンサーと対峙し続けることになった。シンギングボウルの静かな音と静かにそこに在る身体。それを見ているだけでこちらの脈がどんどん上がってくる。身体が在るということの強さ。凄まじさ。

演目というより訓練の披露だった。訓練そのものがあまりに凄まじいので、あからさまに稽古場の床に置く用のマットの上に座り稽古着ノーメイクで――でも、その一連の動きをすることで身体の真実を見せてしまえる。舞台で上演するときよりもむしろ執拗に、ほとんど命の危険を感じさせるほどに繰り返される上半身の回転。主宰の林女史のインストラクションでじっくりと反り、正確に強く動いていく身体。演技を終え舞台から退いていく足取りの一歩一歩、それを支える筋肉の動きのひとつひとつ(何しろ最前列平土間なので突きつけられるようにそれが見える)。

『観』よりの抜粋の一場面を挟み(映像で見るのの何千倍も精緻な――むしろ愚直といったほうがいいような身体の在り様。儀式的でもあり、生々しくもあり、でも何より印象的なのはその身体が感傷やエゴを一切排してそこにあるということ)、男性4人の筋肉と咆哮と気合が炸裂するようなとてつもない群舞に主宰が延々とダメを出し続けるというカッコいいんだか笑っちゃうんだかでもやっぱりカッコいい一場面、そして「勢いやリズムや衝動というもの」について一席ぶったあと、前列の観客を舞台上に引っ張り出して一緒に踊るという趣向。もちろん引っ張り出されて踊りまくる。ヤバい楽しい。

公演のあとのWS。これがまた素晴らしかった。あの凄まじい存在は地道に愚直に身体を鍛えることで至るという証明。そこに至るまでの訓練の第一歩。座る、呼吸する、骨格のアラインメントを整える、滞らないフォルムをつくる、ゆっくりと立つ。100人でランダムに走る、ぶつかる、反射でよける、すり抜ける、歩く、老人の身体になる、野獣になる、咆哮する、戦う、そのあと甘ったれた猫になる。あとは椅子取りゲーム的に反射的に小さなマットに集団で飛び乗ってなんとか零れ落ちないように支えるとか。

呼吸や老人などのイメージ、野獣や猫になること、ゆっくりと立つ…はこれまでの舞踏の訓練でも経験していた。雑踏を走り抜けたりきっかけに反応するのは別の踊りの訓練で経験していた。でも、それらの寄せ集めではなく、何かもっと異質な――というよりは異質なまでの緻密さ、そして愚直さが徹底していた。そうういえば稽古に行ったら最初ずっとただ座らされたという話も聞いた。そしてついさっき、開場から開演までの15分、私の心拍をどんどん上げていったのは、その「ただ座っている」身体の存在感ではなかったか。

これだったのだ、と、腑に落ちた。私は書き手でもあるから、言葉で書けるなら書く。それを踊りで表現するのは踊りたいからだけれど、どこかに嘘がある気がしていた。不立文字ということが課題としてずっとあったけれど、そうありたいと思っても具体的にどうすればそれが出現するのかわからない。口では何とでもいえる、と、ついひねくれる。

不立文字とはこれだよ、ここに至るのは身体の力だよ、語るのではない、在るのだよ、と答えが差し出された。いや、いままでいくつもの答えが差し出されてきたけれど、それを憧れも違和感もなく初めてそのまま受け取れたのだと思う。

私はただ在るということに行き着きたかったのだ。そのためには丁寧で愚直な訓練だ。その先に求めるものがある。

大変にアタマの悪い結論になってしまったのだけれど、これでまた稽古していける。今度は迷うことなく。

このパンフレットは宝物にもお守りにもなりそうだ。

パンフレットを展開すると、美しいポスターになっていた。
えー、そういう趣向なら先に言って! クリアファイルに入れて大事に持ち帰ったのに(うっかり折っちゃったのがむちゃくちゃ悔しい)!!

 

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